旅行記 最終回

 ホーチミンから関空への便は夜間のみ。そのため夕方6時までホテルの部屋は取ってあり、今日の長旅の疲れをシャワーで流した後チェックアウト。最後の夜だから我々の口に合う焼き肉にしようと、商社マン紹介の日本人経営の店へと繰り出します。生ビール有り、日本の焼酎有り、メニューも日本語ならば、給仕に来る女性も日本語の注文をローマ字で記入しています。
 酒の肴は同席のガイドのブーさん。なんと彼は日本にホームステイで来たことがあり、それが我が隣町、ステイ先も知っている方とくれば捨て置けません。更に更に、近々結婚のお相手が日本人。彼女がベトナムにボランティアで植樹に来たことがきっかけ。気のいいブーさんは、したたかな我々にかかっては隠し事などできません。住所、名前、他いろいろまでも白日の下。最初、彼女の両親は口を聞いてもくれず、彼女の取りなしでやっと了解が得られたといいます。「朝遅れて迷惑かけたので、クチトンネルの追加料金は私持ちです。」 ブーさんのまじめな性格がこんなところにも出ています。
 アルコールが程良くまわってきたところで、メンバーの一人がブーさんに「彼女の電話番号、何番?」 今は携帯で国際電話がかけられます。彼女が出て最初はブーさん、それを一人が取り上げて、あれやこれや。彼女も面食らったことでしょうが、我々も紳士の端くれ、横から茶々を入れるものの、ブーさんから聞いたいろんなことをバラしたりはしません。「声や話し方は、素直そうな良い娘やったね」直接話をしたメンバーの感想です。実は写真も見ていて、可愛い娘なのです。
 空港まで送り届けてくれたブーさんと、この春吉野の桜を見に来るというので、再会を約してお別れです。11時半出発、日本時間朝6時半着の5時間は年輩にはちときついですが、バンコックやハノイでもう一泊する余裕はありません。飛行機が空いているのがせめてもの救い、4席占めてのフルフラットで帰るとしましょう。

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旅行記 その11

 明けて四日目、工場見学の日です。クチまで行くので、ベトコンがつくったクチトンネルを見ようと、予定を繰り上げ食事を済ませての朝7時集合です。工場見学の口聞き役をしてくださる商社の方、その商社の通訳役の女性、そして我々が時間通り、でもガイドの車が到着しません。45分程の遅れで出発です。
 通勤時間帯のバイクの多さは昨日の驚きを更に上回ります。誰かが「湧いて出てる」と表現していましたが、正にその通り。走ること1時間半、クチに入ります。ここ一帯ではライスペーパーが作られていて、見学させていただくのもその工場。日本では溶いた米の粉を丸く広げて作る様が、映像で紹介されたりしていますが、ここは従業員280名の規模、面帯で取り上げ蒸した後竹で編んだ板に乗せ天日乾燥をして、後から円形、方形に切り抜きをします。工場所狭しと竹の板がそこかしこに並び、乾燥して竹から離れる音がぱちぱちと小気味よく聞こえます。やはり問題は品質管理。竹の切れ端やゴミ、製品に開いた小さな穴。日本向けは特に厳しく、歩留まりは2・30%とか。
 ベトナム料理の昼食を挟んで、クチトンネルです。ガイドさんの「アメリカがベトコンに勝てなかった証拠です」が売りです。サイゴンから70kmの近さで、長さは200km、驚きです。時間がないのでビデオでの紹介をパスして、実物を見ます。最初にある断面模型を見ると、トンネルは三層構造、会議室や食堂、寝室などは人が立って生活できる大きさ。その間の移動は膝をかがめて。最下層は匍匐前進。換気口や排煙口は、直接の被害を避けて遠くまで伸ばしてあり、特に排煙は目立たない夜間に排出するよう貯煙する空間も作られています。換気口には探索犬を避けるため、犬のいやがる配慮も。いくつか展示してある落とし穴は、戦争だから許される残虐さです。体験できるトンネルに下りると、すぐは広い部屋、そこから真っ暗な階段を下りると、膝をかがめたまま人一人がやっと進めるトンネル。所々に明かりが灯されていますが、両手を壁に付けてトンネルが続いていることを確認しながらのにじり歩きです。ずっと続いているらしいのですが、10m程進んで最初の出口でリタイヤです。戦争に勝利するという目的のために、人はこんなものまで作り上げるのです。
 クチトンネル体験で一汗かいた後は、2時間かけて次の工場見学地に向かいます。ここは我々の本業、はるさめ工場です。日本や中国での製法と異なりいたって簡単。お湯で練った澱粉を方形の容器に入れ、上から圧力を掛けて、下の穴から麺線として押し出します。それを網で作られた板で受けて、後は乾燥機で乾燥、これだけです。原理的にこれだけで製品になるとは考えられず、メンバーの一社はこの方法を実験してみたそうですが、ものにならなかったそうです。購入した澱粉を自社で再度沈殿をさせていることも含め、昔から受け継がれた方法に我々が知り得ない何かが隠されているのではと、実験をした社の社長が申しておりました。ただ燃料に薪を使用していることや煙草を吸いながらの作業は、日本ではとても考えられません。

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ぶりっじばんざい

 答え(2月18日分)。

  7      ここまでの経過を省いているのですが、実はEの手にスペードKがあることは分かっています。
 ダイヤAを取るとEからQが落ちます。次にクラブK、Q、JとリードしたときWが三枚目にダイヤを捨てるのをみて、Eの手にクラブ4枚があったことが分かります。そこでNからはローをプレイすると、Eの手にはスペードKとクラブ10が残っていますから、スペードでリードをEにいれれば、クラブのリードが返ってきて、5トリック取ることができます。
J
A 7 5 2
9 N K
W E  
K 8 4 Q
9 4 S T 8 6 3
T
A 9
K Q J

旅行記 その10

 劣悪な生活レベルを見せられ文化ショックを受けて、我々は空港へと向かいます。降り立った時の何もないイメージに比べ、荷物検査も受けますし、しゃれたレストランもあります。ホーチミンへの飛行機は来るときに比べビジネスクラスも付く少し大型、でも満席です。日本人はごく僅かで、白人が目立ちます。
 ホーチミンに降り立つと、まずは人の多さに驚きです。ガイドを捜すのも、出口に多くのガイドが輪になってプラカードを掲げていてたやすくありません。今度のガイドはブーさん、28歳。30分のホテルまでの間、驚かされるのはバイクの多さです。カンポジア第三の都市、シェムリアップもバイクは多かったですが、その比ではなく、800万人の人口が頷けます。ベトナムの人口の1割近くがこの市に集まっています。赤信号の手前は隙間なくバイクで埋まっており、運転もかなり強引、同方向に進む車の前を右側から追い越しての左折も平気です。バスの中から我々が「あぶない、あぶない」、ブーさんは「大丈夫、大きい方が勝ち」。
 時間があるので寄り道して、サイゴン時代の旧大統領官邸を車窓から眺め、中央郵便局を見学します。前には煉瓦造りのサイゴン大教会がそびえています。あれだけの戦火であってもフランス文化を偲ばせる建物を残したのが、戦争という破壊活動の中での数少ない良識でしょうか。ホテルはサイゴン川に通りを挟んで面した、RENAISSANCE RIVERSIDE。部屋の窓の直ぐ下にフェリーの船着き場が見えます。まだ終業時間には間のある時間帯にもかかわらず、前の道はバイクと車の交通量は多く、フェリーからもごそごそとバイクが降りてきます。サイゴンが陥落し昨年が30周年、ドイモイ政策が始まって20年、急速に伸びゆくベトナムの一端を覗くようです。

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旅行記 その9

 水は灰色、異臭を放っています。生活排水がすべてここに流れ込んでいるのです。船を操るのは若い男性と手伝いの子供の二人。後方長く伸びたプロペラシャフトを水中に下ろし出発。船の混雑で動き出すまでがなかなか。動き出したかと思えば、スクリューにビニールシート類のゴミが絡まって停止。水路の両側のマングロウブの下枝にも、ビニールの切れ端がいっぱいついています。
 船は水路をスピードを上げ、戻り船とのすれ違いではスピードを下げして進みます。それでも水面ぎりぎりの小さな船には相手の水しぶきが飛んできます。水の色は茶色に変わり、筏の上に乗ったヤシの葉覆きの住居が見えてきます。エンジンの修理をしたり、豚を飼っていたりしているのが見られます。もちろん本業は漁師です。学校までもがひときわ大きく浮かんでいます。
 マングローブの水路を抜けると広大な湖が広がり、振り返ると岸辺周りに粗末な屋寝付きの筏が数多く点在します。ボートが着くのはひときわ大きな筏。観光客向けのおみやげやさんです。餌を蒔かれて、ナマズがその餌に群がっています。秋篠の宮もナマズの研究でこの地を訪れられたとか。この湖に生息するワニの生け簀もあり、鰐皮ようとして中国に出すそうです。遙か遠くの湖の中程に鉄塔が見え、乾期のさなかはそこまでこの筏も移動するとか。雨期には澄んでくる水も今は茶色に濁っているのですが、槽に溜め沈殿させて上澄みを飲み水にも使うそうです。が、「ほれ、こんなにきれいになります」と示された水もとても飲めそうにはありません。
 この観光筏の周りにもたらい状のプラスチック容器にのって櫂で上手に進みながら、指を一本立て「ワンダラー」と子供が寄ってきます。戻ろうとボートに戻っても周りにその子供達や、小さなボートの舳先から女の子がお金をせびります。その後ろにはその子達の母親とおぼしき女性がいて、なんとも身につまされる光景です。

旅行記 その8

 三日目、ホーチミンへの移動日。午後1時半の飛行機までの時間、ガイド、トロイさんの立案で大きな湖、TONLE SAP(発音を聞きましたが忘れてしまっています。SAPとは淡水という意味だったでしょうか)での水上生活者の見学です。(現地に来て初めて何をすると決まるのが我々の旅行です) 乾期の今は小さく(それでも琵琶湖の2~3倍)、水はメコン川に流出していますが、雨期になると逆にメコン川からも水が入ってきて、乾期の大きさのさらに3倍にも巨大化するのだそうです。それにあわせ、水上生活者もその都度場所替えての生活です。
 シェムリアップ市の中心を過ぎ、土手の上につくられた地道を、砂煙を上げながら車を進めます。遺跡とこの湖の観光はセットになっているようで、同方向に向かう車が何台も列をなしています。我々の前の車には「伊豆シーワールド」の文字が。ナンバープレートがなくとも平気で、実は我々の乗る車にもついていません。「税金払ってるから大丈夫」はトロイさんの弁です。
 土手から2~3m下がった平地は、所々に沼地はあるものの広大な水田となっています。雨期には水につかりその姿はなく、この気温にもかかわらず、米は一毛作というのも頷けます。土手との高低差を木で粗末に脚を組み、その上にヤシの葉で屋根・壁をふいた一間の家が、道を出入り口として並んでいます。砂煙でヤシの葉はすでに赤茶けた状態。途中一度車が止まります。制服を着た人が2・3人いて入場券売場の感じ、漁業組合のような組合が管理していて船のチャーターをチェックしているとのこと(このツアーは25ドル/人)。更にガタガタと地道を走って船着き場に到着です。船といっても細長い小さな木製、そこに10脚ほどの籐の椅子が置かれ、シートの屋根が張られています。そんな船がいくつも狭い水路にひしめいています。船の一艘からは豚が荷下ろしされていて、両足を縛られて計量されるうめき声が悲しく響いています。

旅行記 その7

 遺跡巡りは一日入場券が一人20ドル。必要とて事前に準備した顔写真は、一日だけの場合には不要でした。遺跡近くに車が来ると、道端から人が近づいてきて、あれ物売りかと思えばそれは入場券のチェックなのです。おおむね人数の確認程度ですが、場所によってはパンチを入れたり、券の隅を切り落としたりして確認をしています。
 夕食までには時間があるので、市のマーケットと土産物店をひやかします。市民が普段に利用する市場とのことですが、ゴミはひどいし、臭いもひどく、かなり時代ギャップを感じます。各国の市場を知るメンバーの一人は、「こんなひどいのを見たのは初めて」と感想を漏らしておりました。土産物店は観光地ではどこにでもあるスタイル。ツアー会社と契約して観光客を呼ぶのですが、はなからひやかしの我々相手では、後をついて必死に売り込みをかける女性達が気の毒です。しつこいのはいささかうんざりですが、流暢な日本語を話す彼女たちの努力ぶりには脱帽です。
 夕食はガイドさんのアレンジで、ショーを見ながらのバイキング。ショーはバリ島で有名な、指に長い爪を付けて指先までそらせて舞うダンスです。有名どころの店とみえて、ショーの開幕までにみるみる人で座席がうまります。でもこの手の舞踊はストーリがあってそれを知った上でないと、踊りの仕草も繰り返しで、伴奏のリズムも単調ですので、次第に飽きてきてしまいます。料理にも不平を言うメンバーが多く、それもこれも今日はよく歩いた疲れの性でしょうか。

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旅行記 その6

 遂に来ました、アンコールワットです。タ・プロームと違ってこちらはできるだけ修理を手がけていて、今も日本や中国の援助で修理を継続しています。ただ働いている人がダラダラしているように見えるのは、お国柄でしょうか。
 環濠をまたぐ形の西参道の既に修復されている右側を進むと、西塔門が次第に近ずいて来ます。三つの尖塔の上部はいずれも崩落していますが、それでもここがアンコールワットの楼門だとの威厳を放っています。楼門をくぐると出口を額縁のようにして、回廊に囲まれた中央祠堂の尖塔が目の当たりに見えます。更に参道を進むと左右に経堂があり左側は日本の援助で修理が終わったばかり、新しくはめ込んだ石の色が違うのですが、建造当初はこの色だったとか。参道の左右は今は草原ですが当時は水がたたえられていたそうで、その荘厳さが想像できます。左右にある聖池には僅かばかりの水が残っていて、あの絵はがきで見る逆さアンコールを写真に収めます。
 この寺院はそれぞれ方形の回廊で囲まれた三層構造で、一層目、二層目、三層目と順次階段で上っていく構造です。ガイドさんはまず、第一回廊の見事なレリーフに案内し、説明をしてくれます。神話に基づく彫刻、天国・現世・地獄の図、一部には金箔のあとも残ります。興味を持つ人ならば、ここだけで何日も通い詰めることでしょう。
 昼食後すぐの観光客が避ける時間帯のため、人がうまる回廊も観光客はまばらで、ゆっくりと説明に聞き入ります。が、やはり記憶し切れません。第二回廊を過ぎ、いよいよ最上階第三回廊です。噂には聞いていましたが、目の前の階段はまるで壁、幅もさほどなくすり減っている上に、所々かけたりしています。でもこれを上らなければ来た意味がありません。横の石壁づたいに、最初は案外楽だなと思いながら昇りますが、途中で登り切れるだろうかと不安になってきます。その横をガイドさんが、ひょいひょいと昇っていきます。最後はこのガイドさんに引っ張り上げてもらい、無事達成です。やはりというか、年に何人もの人が落ち、死者も出るそうです。
 登り切った第三回廊の四隅には尖塔がそびえ、中央に位置する祠堂にはひときわ高く尖塔がそびえています。遠くからアンコールワットを見たときの塔は、この五つの塔なのです。
 さて昇ったからには降りねばなりません。でもご安心ください。上った階段とは別に、正面の階段には細いながらガイド棒が付けられています。混雑するときは下り専用となるのだそうですが、込み合っていない今も、順に一列になってその棒を、汗で滑るのを気にしながら、つたって下ります。遺跡の見学の他にひと味違った達成感があるのも、このアンコールワットの魅力でしょうか。

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ぶりっじばんざい

 問題です。

  7      ノートランプのプレイで残り6枚、SのリードでN-Sで5トリック取るにはどうプレイをすればよいでしょうか。
 クラブが3-3の別れであれば簡単ですが、残念ながら2-4です。何度か同じパターンを経験していますので、今回は復習です。
J
A 7 5 2
9 N K
W E  
K 8 4 Q
9 4 S T 8 6 3
T
A 9
K Q J

旅行記 その5

 タ・プローム、ここは駐車場からしばらく徒歩で林の中へ入ります。韓国からの観光客が一番多いとのことですが、その言葉通り、チップを目当てに数人が道端で「アリラン」を奏でています。建造物の石がごろごろと転がるままにされた遺跡に足を踏み入れると、すぐさまカジュマルの木が石造りの建造物に絡みついているのを目にします。遺跡を保存するために逆に木を切り倒せないとのことですが、この文明が自然に飲み込まれていく様は、見事な観光資産です。
 「有名なのはこの先です」 ガイドさんについて進むと、なんと太い幹というか根というか、個々の石組みよりも大きく、建造物に覆い被さる形で何本にも分かれた根を地中へとおろしています。まさに自然のなせる技です。この木は、最初遺跡の上に根付いてそこから幹は上へ、根は下へと伸ばしていくのだそうで、石と石との間に絡まった根はその成長過程を物語っています。枯れた木の上に根付いた若木からするするとしっかりとした根が、3・4m伸びている場所も見かけました。
 歩いた後のビールの美味さを昼食で逃さなかった次は、アキラの地雷博物館。アキラ氏は簡単な道具と素手で、地雷を除去し多くの人名を救っていることで、カンボジアでは英雄です。博物館といっても粗末な建物に処理した地雷、爆弾と写真、英文説明のパネルが展示してあるだけですが、手足だけをねらった小さな地雷、対戦車用の大きな地雷が処理されてうずたかく積まれているのを見ると、戦争悪と戦争のない日本のありがたさを感じます。外のテントではビデオでアキラ氏の地雷処理の様子が映され、数少ない訪問者の内の白人が見入っていました。ビデオの最後の方で、片足の子供達が松葉杖を使いながら、サッカーに興じ、その姿は屈託なく、転びながらもボールを追いかけている様子が映されています。地雷は中国製、アメリカ製、ロシア製の順に多いのだそうですが、武器輸出国の人はどういう気持ちでこれらを見ていることでしょう。

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